自己紹介

秩父党惣領。長寛2年(1164)〜元久2年6月22日(1205年7月10日)。桓武平氏良文流畠山氏、父は畠山重能。頼朝さま挙兵に伴い源氏に帰伏する。 写真は実家の深谷市にある銅像、愛馬三日月と。右手が不安定。 【説明書き】https://t.co/GB4ARocveN

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《始めに》

平安末〜鎌倉初期の坂東武士、秩父党惣領
畠山重忠の話をしていますbotアカウントです。

しばしば混同される室町時代の管領家となった源姓畠山氏とは違う、
ということを声高に言うために立ち上がったと言っても良い
アカウントですので、

信長の野望で知ってるわー

などと言われると悲しみます。
この時点で、え、違うの? てか源姓とかなに? という方は
「畠山重忠の乱」をwikiでみてくださるとざっくりわかるので
http://goo.gl/1PaO7
こちらで一度ご確認いただけるとありがたいです。
また、畠山氏
http://goo.gl/dPyiC
で、平姓畠山氏/源姓畠山氏のそれぞれを見てくださってもOK

書籍だと独立して扱ってくださってるのは
貫達人 著『畠山重忠』(人物叢書/吉川弘文館) ※2013年4月、重版出来!
清水亮 著『畠山重忠』 (中世関東武士の研究 7巻/戎光祥出版)

あとは『吾妻鏡』『平家物語』『源平盛衰記』『愚管抄』などの
古典の中で私の話は読む事ができます。※史実呟きの基本は吾妻鏡です

念のため一族の歴史(秩父党/坂東八平氏の歴史〜源氏との関係)などは
下の方にまとめておきます。暇な時お読みください。
※その関係の参考図書は後日まとめてみようかと思うております。
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《定期呟き》

現状は3時間に一度、自分自身にまつわる史実、伝承などを
呟きます。時代が時代なもので不明点、言い伝えも多く、
後世の創作(鎌倉〜室町期の軍記物など)も紹介します。
(そもそもアイコンの馬担いでる図自体が…)
(なるべく出典は答えられるようにしております)。

各地に伝わる言い伝えや物語は面白いものではあるので
なにかご存知であったり追加希望の話題はDMや@で教えてくださいませ。

自分にまつわる話として、鍛冶頭であり製鉄を統べる秩父党として
中世坂東の製鉄やそれにまつわる人々、協力関係にあった武蔵七党
(特に畠山家は丹党、児玉党、横山党が関係深い)についても話します。

朝、昼餉、おやつ、就寝などで何かしら呟きますが、飯は主に現世ネタです。
(就寝起床は平日と休日で一時間近く違います)

子の刻〜卯の刻(0~7時)は定期ツイを休む事にしてみました。
ただ丑三つ時過ぎに、夜更かしの方のために歌ったりします。
声をかけてくれると歌うので、夜勤のお供に、眠れぬ夜の子守唄にどうぞ。
(手動で呟いてるときのその時間はだいたい飲んでてタチ悪いです)

話題がたまってきたら定期呟きのペースをあげるかもしれません。
※2013/5/16に4時間毎→3時間毎に変更
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《返事など》

おはよう、おやすみ、などに自動反応します。徐々に増やすかもしれません。
※怪力話ばかりで音曲の才があったという事を誰も触れてくれないので
【今様】と投げると好きな今様をランダムに歌います。【】をお忘れなく。
※モノノフ仕様で【口上】など投げると、ももクロ替歌か鎌倉御家人クローバー
(梶原景季、佐々木高綱、安達景盛、佐原義連、私、工藤祐経)の口上を返します。
「歌って」を含めて声かけると、ゴケクロの替歌をランダムで一節歌います。

当面は手動リプライが多いと思いますので、気長に見てやってください。
リフォローについては、もう少し環境整備してから徐々に手動でお返しします。
現状は歴史人物bot関係中心のフォローになっています。

ただ、リストなどでの整理をしていないこともありTLが荒れる事を防ぐため、
・極端に呟きの多い方、攻撃的なツイートの多い方
・全く歴史や畠山関連に興味の無い方、アフィリエイトやフォロワー数を
 増やす事が目的であるアカウント
などについてはフォローできません。ご了承ください。
また鍵付きアカウントの方の場合、私の相互フォローしているbotさんたちとの
やり取りなどから判断する場合もありますが、@なども鍵の中からだと
届きませんので、都度都度での対応になります。

時折、お知らせなどに出てくる家人は主に以下の二人;
榛沢六郎成清:武蔵七党丹党出身、私の乳母子であり、軍師。
   初陣の小壺坂から最期まで共に過ごす。冷静沈着に私の直情を諌める役が多い
本田次郎近常(親常):成清と同じく初陣から二俣川まで付き従った郎中、
   多く武功をあげる。人情に厚い面もあり曽我物語にも逸話が見れる
※近常の後胤は戦国時代に入り深谷上杉氏に属し、後北条氏へと従ったという。
また子息の貞親は、私の娘が嫁いだ島津家初代忠久(烏帽子子でもある)に
付き従い、国分平野の清水城に居を構え薩摩本田家として続いていく。
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《その他》

好きなもの→ 馬、特に愛馬 三日月、鬼栗毛、山嵐。現世の甘味、酒、味噌
趣味→ 今様を始めとした音曲、随筆を中心とした読書、旅行、乗馬、和弓
所縁の地→ 秩父(埼玉〜多摩)、鶴ヶ峰、鎌倉、京都、奥州(陸奥)など

古くからの畠山重忠のイメージなどおありの方も減ってまいりました。
基本的には定期呟きは真面目、謹直の史実ベース。
手動では当世風でいうとKYな発言が元々多め仕様。お話しする相手によって、
やや悪ノリもしますし、現世の話もばりばりすると思います。
あと酒が入っているときのツイートは自重してますが、
ついつい、へろへろな答えをするかもしれません。

そんなの重忠じゃない! という方は、申し訳ありません。
フォローをお外しになるか、ご感想を率直にいただけますと勉強になります。

現状は以上のようなところです。
末永くよろしくお願いします。


以下、重忠/畠山氏/秩父党についての一般的資料
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・畠山重忠
武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を本拠とした、
坂東八平氏の秩父氏の一族のちに惣領。同族には江戸氏、河越氏、豊島氏など。
父、畠山重能が平治の乱以降、平家に出仕していて重忠もこれに従うが、
源頼朝の挙兵に伴い源氏方へ帰参し、秩父党の系列である武蔵七党を率いて、
源平合戦で武功をあげ、鎌倉御家人に列した。
大力で知られ、源平合戦の一の谷の戦いで愛馬を背負って崖を降りた
という伝承(アイコン写真参照)を代表に諸々話題あり。
清廉潔白な性格で鎌倉武士の鑑と言われ信頼を得るが、頼朝亡きあと
元久二年、讒言により相模国国境の二俣川にて討死。享年42歳。

・秩父氏〜畠山氏(1180年、畠山重能まで)
桓武天皇の曾孫、高望王が「平朝臣」姓を受け臣籍降下、上総介として東国へ下向。
その子である平良文、また四代の孫、平武基が武蔵国の勅旨牧の秩父牧別当に就き、
その子、平武綱が「秩父武者十郎」と号した。
「前九年の役」では武基が、摂関家侍衛の臣・源頼義と共に出陣し、
「後三年の役」では武基の子、平武綱が源(八幡太郎)義家に従い、
 源義家から白旗を賜り先陣を務めた。

それから四代の後、畠山重能が「大蔵合戦」にて源義平の軍勢に加わり
大蔵館を攻め、源義賢と叔父の秩父重隆を討ち果たす。この時に重能は
曽祖父の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を指物にしていた。

この合戦により畠山重能は秩父重隆より秩父党の惣領としての地位を取り戻し、
また男衾郡畠山から大蔵郷と都幾川を挟んだ対岸の高台、菅谷村に進出した。
その際に重隆の館であった菅谷館を取り込み、改築したと見られる。

平治元(1159)年12月、「平治の乱」で藤原信頼・源義朝が敗れて討たれると、
永暦元(1160)年には、平清盛の子・平知盛が武蔵国の知行国守になり、
重能と弟である小山田有重の兄弟は積極的に平知盛に仕えて東国での力を強める。

この時期の秩父党は嫡家・畠山氏、惣領家・河越氏、四男流・江戸氏と
大きく三つの家がそれぞれで力を蓄えていた。

畠山荘司重能・小山田別当有重の兄弟、武蔵国留守所検校職にあった河越太郎重頼、
武蔵国南部に勢力を広げていた江戸太郎重長は、頼朝の挙兵当初は平家側として
源氏に与した三浦氏を攻めている。(1180年、衣笠城合戦)

同年の頼朝再挙兵の時、大番役で京都にあった畠山重能・小山田有重兄弟に代わり
関東にあった17歳の畠山重忠が秩父党を率いて源氏へ帰参する。
のち畠山重能・小山田有重は平知盛に許され武蔵国に戻り、
重能はそのまま隠居したと思われる。
有重は1184年に一條忠頼の謀殺に関わる記述が吾妻鏡に見えるのを最後とする。

日付データ

プロフ更新日2013/05/18 11:35 プロフ作成日2013/01/04 21:38
API更新日2024/11/13 10:53 API更新予定2024/11/13 11:53