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(名前)佐々成政(さっさ なりまさ)(通称は『内蔵助(くらのすけ)』若しくはあまり使わないが『陸奥守(むつのかみ)』)
(生年)天文5年1月15日(1536年2月6日)(但し、永正16年(1516年)生まれ、天文8年(1539年)生まれと異説あり)
(没年)天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
(身長)7尺4寸(約224㎝) (体重)44貫(約165㎏)
(※身長・体重は各診断メーカーから算出。実際の所は不明)
(氏族)佐々氏(宇多源氏《近江源氏》佐々木氏嫡流・六角氏の庶流。有力な説では六角氏初代当主といわれる佐々木《六角》泰綱の三男・佐々頼起が佐々氏の祖と言われている。)
(出典)「戦国大戦」シリーズ (現在は『戦国大戦 - 1477-1615 日ノ本一統への軍記 -』)(※2017年3月1日に全稼働終了。但し、俺自身は未だに稼働しているので御座る《笑》)
(CV)小野大輔
(出身地)尾張国春日井郡比良城(現・愛知県名古屋市西区山田町比良3丁目)
(現職)織田信長配下の武将で、北陸方面軍司令官・柴田勝家の与力。越中(現・富山県)の守護大名を務めている。因みに若い頃は、織田信長直属の親衛隊の一つである「黒母衣衆」の筆頭を務めていた。
(スペック)武力7・統率7、鉄砲隊
(計略名)母衣衆(ほろしゅう)の采配……範囲内にいる、織田軍の味方の武力を上げ、
敵の対象計略(ダメージ、妨害、敵の数や武力等を参照に強化される計略等)の対象外となる。
(特徴)
1・(公式としては)血気盛んで、自信過剰かつナルシストな傾向にあるが、此処では一切それらをロ愛気(おくび)に出さない。かなり温和かつ義理堅い性格。
2・自分のフォロワーに参加してくれた人達に対してその御礼に赴き、御土産を贈る。しかし最近は此方から出向く事が多い。また、問答でも極力無礼にならぬ様、相手に自分の主張を無理に押し付けない、相手の事を顧みずに一方的に話を進めない等、慎んだ態度で取り組む。また出向時や退去時には必ず周りの者に挨拶を欠かさず行う。但し、時として相手が礼を損ねた事があったりした場合は、それを正すべく尋ねる事がある。
3・時として淋しくなったり、暇となる傾向にあった場合、短歌や俳句(特に短歌)を詠むか、大喜利に赴いて回答に没頭する事もある。また、時代にそぐわぬ事を呟く(※)時も多々ある。
(※その理由としては、「中の人」から徹底して教えられている為。また、「中の人」が現役で介護職《介護ヘルパー2級と介護福祉士の資格を取得済み》に携わっている為、時としてその分野についても口に出す事がある)
4・来る者は拒まず、去る者は追わない様にしているが、実を言うと相当の「淋しがり」である。
5・来訪者(フォロワー)は基本、どの様な人物でも歓迎するが、出来る事ならば「なりきり」の方を希望している。また、参加条件は、「一番下の辺り」を参照。
(※尚、あからさまに如何わしいもの《スパム広告》や卑猥なもの《アダルト関係の類、完全に同性愛にまつわる物、等》である、また態度が明らかに横柄である者、縁を結ぶだけで友好関係が見られぬ者、異国から何気無しに縁を結びに来た者の場合は有無を言わさず即刻遮断《ブロック》する。また、一貫性に欠ける者の場合は、後述する『ある事』をして頂いた場合でも距離を置こうとする傾向にある)
6・礼儀を重んじており、縁を結んでいる者(フォロワー)、結んでいない者を問わず、「ただいま」、「さよなら」、「お休みなさい」、「離脱する」等の挨拶や一言を見掛けたら、必ず挨拶等を返す事を心掛けている。また、御節介乍ら困っている人等も見掛けたら空かさず労りの言葉や労いの言葉を送る。
7・畿内(近畿地方)での戦(特に相手は浅井・朝倉家、本願寺、雑賀衆、三好三人衆とその取り巻き)が多かった為か、時として河内弁で喋る事がある。
(※中の人が大阪出身であるというのが本当の理由。因みに佐々成政は尾張(名古屋)の出だが、中の人は尾張の方言がほとんど分かりません。中の人:「名古屋弁、誰か教えて!!!!!」)
8・一人称は基本的に「俺」(公式による)。但し時として、年輩の人や名のある人に対しては「私」、「拙者」、「某」と言う事もある。
9・時としてやり取りに羽目を外す事(例としては物語形式になって、他の人物等を演じたりする)もある。また、(寝落ち以外での)相手からの返事が遅いと感じた場合、尋ねる事もある。
10・他人を呼ぶ際は基本、「殿」や「様」を付けるが、時として史実で好敵手に当たる人物(特に豊臣秀吉や前田利家)、また著しく嫌悪感を感じる人物(例:古代ローマ皇帝のヘリオガバルス等)の場合は呼び捨てにする事がある。
11・(※なりきりではございますが、時として本来の佐々成政としてのキャラとは程遠くかけ離れたり崩れたりする事もございますので、予め御了承下さい。)
12・「座右の銘」は「成らぬ堪忍、するが堪忍」、「人の振り見て我が振り直せ」、「泰然自若」。
13・来る時間は諸事情により、大体夜更け頃が多い。但し、時々日中や夕方頃にも来る事がある。
14・会話を終える際は基本的に別れの挨拶をするか、文章に「(返信不必要)」と入れるが、「いいね」を入れて表示する事もある。
(口癖)
「コノナリマサガー!!!!!」(撤退時の台詞)
「成政が戻って来たぞ、安心せよ!!!」(復活時の台詞。因みに此処から一部のファンから時折渾名として『安心』若しくは『安心成政』と呼ばれる事もある。)
「ふっ、楽勝だな!!!」(開幕時、及び計略使用時の台詞)
「さあ、ここからは俺の時間だ!!!」(虎口攻め開始時の台詞。俗に、この辺りで一部のファンから『スーパー成政タイム(略称SNT)』と呼ばれる事もある)
「ふっ、楽勝過ぎて欠伸が出るわ!!!」(虎口攻め成功時の台詞)
「フハハハハハッ!!!」(城門への攻城を決めている時の台詞。……まあ、高笑いしているだけなのだが。)
「織田を支える若き才……、それがこの成政よ!!!」(カード裏のテキストフレーバー、及び落城勝利時の台詞)
「御苦労だな!!!」(武将熟練度(※)が上がった時の台詞)
(※)(RPGに出て来る、レベルアップみたいなもの。只、能力値がそれで上がったりはしないが、一定の数が上がる度に星〔小さい金星(熟練度1から)→銀星・小さい金星(熟練度5から)→赤星・銀星・小さい金星(熟練度25から)→大金星(熟練度が最大の99になった時に付く)〕が付き、『どれ程、この武将を使いこなしている』のかが分かるのが特徴。→『1582 日輪本能寺より出ずる』より熟練度のシステムが改変され、熟練度が1~5までは茶色の星が5等分して点灯、熟練度が10~50までは銀色の星へと変化。60~100までは金色の星(小金星)へと変化。それを繰り返し、最終的に最大の熟練度300まで到達した場合、月桂冠入りの大金星が表示される。
「む、何だ? 下を見ても何も無いぞ。」
「だから、何も無いと言っているだろう。」
「……と思ったか? 宜しい、ならばもっと下を辿るべし。」
(御本人より一言)
よくぞ此処まで読んで下さった。まあ、長過ぎたのは誠に申し訳御座らぬが……。
一応、その御礼と致しまして、俺の「合言葉」を贈る故、俺と縁(えにし)を結ぶ者(フォロワー)として決意をなされた時は、これらの内のどれか一つを持参して縁を結んで下され。
まあ、全て持参しても宜しいが……。
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↓( 合 言 葉 一 覧 表 )
【さらさら越え】(小牧・長久手の一戦で豊臣秀吉と和睦した徳川家康殿に今一度戦って頂く事を説得すべく、厳寒の立山連峰を踏破した逸話で御座る。結果として家康殿にやんわりと断られ、説得は失敗に終わってしまったのだが、ね……。)
【黒母衣衆】(俺が若い頃に所属した、信長様の親衛隊の一つだ。因みに俺の好敵手である又左、いや、前田利家の場合は『赤母衣衆』の方で御座る。)
【越中】もしくは【富山】(色々とあったが、俺が愛した所である。景色良し、人柄良し。何も言う事はあるまいて、本当。)
【小野大輔】(【小野D】、【おのでぃー】でも可。前述した通り俺の声を担当している、「しりあす」から「こみかる」まで、何でもござれの御方で御座る。
因みに御本人は「『戦国大戦』で一番印象が残った武将は?」と質問された所、「(本願寺)顕如」と答えたそうだ。
まあ、確かに顕如殿の印象はかなり強烈であったが、俺としては少々寂しい限りだな……。
( ノД`) )
【SNT】若しくは【スーパーナリマサタイム】(【スーパー成政タイム】でも可)(←前述の通り、俺が虎口攻めに突入した時の様子をファンが付けてくれた言葉だ。此処《Twitter》では一風変わった『スーパーナリマサタイム』を皆に見せる所存だ!!)
【府中三人衆】(←越前《福井県東部》に居た頃の俺と《前田》利家、不破光治殿の事で御座る。柴田《勝家》様が越前を信長様から任された時、俺を含む三人は柴田様の与力として、その内の府中《福井市の近辺》を我々に任された故、そう呼ばれる様になったのだ。)
【小丸城】(←越前《今の福井県嶺北地方》の一向一揆を収拾した後、俺が初めて信長様から与えられた城で御座る。まあ、それから間もなく俺は越中富山の方に移封されたから、この城に留まったのは僅か6年位なのだが、ね。因みに城郭拡大の工事を行っている最中の移封の為、未完成のまま現在では遺構として残っているぞ。)
【隅立て四つ目結】(←佐々木家の、若しくはその分家の家紋、定紋で御座る。我が佐々家は棕櫚《しゅろ》の葉の家紋であるが、軍旗等ではこの隅立て四つ目結紋を使用しているぞ。)
【三階菅笠】(←俺の馬印だ。本来、馬印の使用はその者のみ限定で、他者は使用してはならぬという規則があったのだ。只、後に例外として蒲生氏郷殿が小田原の役にて奮闘を見せ、俺の馬印の使用を、秀吉から許可を得たのであるが……。)
【陸奥守】(←俺の受領名だ。書によっては『佐々陸奥守』か、或いは秀吉から貰った苗字である『羽柴陸奥守』名義で記載されている事があるぞ。)
【鍬崎山】(←立山連峰の一つで、俺が莫大な軍資金を埋めた山だといわれている。故に「埋蔵金伝説」で有名になっているのだが……。では実際に其処に埋めたのか? と尋ねられると、俺としては禁則事項故、何とも言えぬのだが、ね。)
【摂津尼崎】もしくは【尼崎】、【法園寺】(←俺が肥後での失政を《豊臣》秀吉から咎められ、切腹をした場所と寺院で御座る。今でも俺の墓はこの寺院の中にあるぞ。)
【後陽成天皇】(←我々が居た頃の当時におわされていた天子様《天皇陛下》で御座る。俺が前述の法園寺で切腹を果たした後……、
『なき人の かたみの雲や しくるらむ 夕の雨に 色はみえねと』
という惜別の歌を送って下さった逸話がある。俺としては今でも陛下に対して、非常に御恩を感じているぞ。)
【山口祐一郎】、【大谷亮介】、【菅裕輔】(←左から『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』、『軍師官兵衛』、『麒麟がくる』と、其々NHKの大河ドラマで俺の役を演じた俳優で御座る。特に山口殿は主役が《前田》利家(=唐沢寿明)であるが故、その絡みとして最も登場していたからかなり有り難かった。尚、他にも俺を演じた俳優が居た事が判明した時は、更に増やしていく所存だ。)
【武功夜話】<←尾張の土豪である、前野家の動向等を記した覚書等を集成した家譜の一種である文書である《著者は俺の家臣の一人・小坂雄吉の孫にあたる吉田雄翟(かつかね)という人物》。俺の家臣に前野小兵衛と小坂雄吉《※》がおり、その縁で俺《ひいては佐々家自体だが》と前野家は関係が強く、その文書にも度々俺の名が記されているのだ。
但し……、
1・文法が結構、近現代の言葉に近いものが幾つか記されており、また「隊」、「手」、「ヒソヒソ語り」、「城下の盟」と云った、我々のいた時代《戦国時代》にはなかった軍事用語《これらは大体明治時代以降のものと推定》が記載されていたり、また「富加」という、美濃国(岐阜県南部)加茂郡富田村と同郡加治田村が1954《昭和29》年に合併、そこで初めて誕生した町の名前が記載されている。
《尤も、京都と大坂を『京坂』(後に『京阪』)、阿波《徳島県》と讃岐《香川県》に通ずる道を『阿讃街道』と圧縮して呼ぶ事が古来から存在していた事を考えると、富田村と加治田村までの道をの呼び方を『富加道』と現地の人々が昔から呼んでいた事実が存在しており、『富加』が新語であるとは肯定出来ぬ点もある。》
2・羽柴(豊臣)秀吉が一夜にして築き上げ、斎藤家の稲葉山城の攻略に役立った『墨俣一夜城』の事に関して、その築城等の経緯が詳細に記載されており、現在の墨俣城の公園はこの書に基いて整備されたという話があるが……。『信長公記』を始めとする数多くの歴史書ではその事実がほぼ全く記載されておらず、また別の書では斎藤家の居城であったものを奪取して羽柴秀吉が改築、それを稲葉山城攻略の足掛かりに用いたという事も記載されており、真偽の方が不明である。
3・『武功夜話』自体が長年にわたって『貸出禁止』にされていた理由が、前野家の当主である前野長康殿がキリシタンであった事や、彼を含む親子がが豊臣秀次事件に関与していた事が理由とされているが、長康殿は豊臣秀吉が発布したキリシタン禁止令に対してすぐに応じて棄教・改宗した《故にこの時点で秘密にする様な内容は消失している事になる》、また徳川時代に入ってからは秀次事件は既に過去の話であり、問題にならぬのは明白である事から一体、本当の理由は何なのかが未だに不明である。
4・作者である吉田雄翟殿自体、実は小坂雄吉の孫では無かったのでは? という説がある。
(小坂雄吉の嫡子である小坂雄長《かつなが、若しくは『おなが』》が小坂家の後を継ぎ、織田信雄→豊臣秀吉→豊臣秀頼→松平忠吉、そして徳川家光に仕え、幕末まで旗本の『幕臣小坂氏』として現在も存続している。だが、『武功夜話』ではその雄長の兄であり、吉田雄翟殿の父親である小坂(のち養子縁組で吉田姓)雄善なる人物が存在しており、その場合だと本来は小坂雄善が嫡男であるが故に小坂家の系譜に記載されても良い筈が全く記載されておらず、『小坂雄善は架空の人物』という色が立っている。)
5・「武功夜話」の文章の中に、前野長康殿が記した「五宗記」という日記があり、一時は我々の時代の学説を根本から覆す、非常に貴重な資料と注目されたものの、使用されている語彙の一部に現代人に容易に分かる物がある為、史料としての信憑性に欠けている。
……等々、史実の点に於いて疑わしい部分が数多く存在するが故に、「実は更に後世になってから書かれた、所謂『偽書』ではないのか?」と多くの歴史学者から疑問の目を向けられているので御座る。
只、書に扱われた紙の質はほぼ我々の居た時代のものと判明されており、また……、
「他の資料に記されていない史実も記されている。だが、不正確な記事や在り得ない表現があり、恐らくは元々の資料に後世の何者かによってかなりの手が加えられ、結果的に資料的価値が低下した書となってしまったのであろう。」(戦国史研究家でもある、歴史家・谷口克広殿の主張)
「荒唐無稽な部分も多く、良質な資料とは言い難いかも知れないが、織田信長や豊臣秀吉に関する一次史料の空白を補う参考資料としては貴重な物である。」「近年では明白な偽文書でさえ、作成の背景や意図が研究の対象なっているのである。偽書や偽文書として切り捨てるだけの時代は、とうの昔に終わっている。」(日本史学者であり、三重大学の教授である藤田達生殿の主張)
と、疑わしけれど「貴重な史料」として見てくれている歴史学者の方々も居る。故に結果はどうであれ、様々な歴史を知る足掛かりになればそれで良い、と俺は思っているぞ。>
《※尾張の土豪・小坂政吉の嫡男と言われているが、『武功夜話』では前野宗康の嫡男で、母親の生家である小坂家に養子として入ったと言われている。その場合は、豊臣秀吉の古参の家臣の一人である前野長康は小坂雄吉の実弟に当たる。》
……後、これは俺と同じ時代に生きた者、つまり「戦国時代の人物」限定だが、「自分自身以外の武将の名前」を入れても可で御座る。例を挙げるとすれば「織田信長」、「豊臣秀吉」等々、だ。
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(※企業やBOT、自動リプライは除く。これらは合言葉について尋ねた所で、人形や木に催促している事と同然であるからな。)
(※但し例外としては……、
1・俺の『固定ついーと』に『りついーと(返信を含む)』若しくは『いいね』で応じ、その後正式に縁を結んだ者
2・俺の呟きに反応、共感して『りついーと』若しくは『いいね』で応じ、その後正式に縁を結んだ者
3・『合言葉制度』以前の者を含めて、過去に一度縁を結び、その後縁を断ち切ったものの、再び縁を結び直した者
4・我が主君(つまりは信長様)もしくはその血筋に当たる方々(信忠様や三法師様《=秀信様》、信雄様等)や、我が上司(柴田勝家様)に当たる御方(※但し、巷で登場している女性化された方ではなく、れっきとした男性のみに限る)
5・俺の方から縁を結び(フォロー)に参られた者
6・自己紹介文の中に、既に合言葉となる言葉を記載している者(例:私、『富山県』出身です。どうか宜しく御願いを致します。)
7・縁(フォロー)を結んで来たものの、1週間以上も俺の方が梨の礫の状態であり、待たせてしまった者
以上7点の内、どちらか一つでも該当した場合、此方としては『合言葉不要』で縁結び《フォロー》の承認を致す故、其処の辺りも宜しく御願いを致す。)
うむ、以上で御座る。それでは改めまして、今後とも宜しく御願いを致しますぞ!!!!!
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