*私について。
(かなり長いです。長文が苦手な方はスルーしてくださいませ。)
#小学校
性格暗くて、いじめられっ子。
当時からガリガリで、身長順(小さい順)に並ぶと、常に先頭。
初恋は、4年生の頃。卒業するまで好きだった。当然のように片想い。
今考えてみると、この当時から確認強迫みたいなものがあった気がする。その頃バス通学をすることがあったが、「お金が足りるだろうか」と、しきりに確かめてた記憶がある。
結局、ろくな思い出がない。
#中学校
ここでもいわゆる「ネクラ(死語)」で、友だちはほとんどいなかった。
学校に入ってすぐの頃、吹奏楽部に入るも、まったく楽しくなくて約一年で退部。ちなみに、楽器は、トランペットの長さが短いバージョンの「コルネット」だった。先輩にも同期にも、ろくなのがいなかった。
この頃、また好きな人ができた。やはり吹奏楽部のクラリネットの担当の女の子だった。超優等生タイプで、別々の高校に進んでも、なかなか忘れられなかった。まぁ、また片想いだったわけだが。2年生の時に、たまたまその子と席が隣同士になって、その頃だけは、毎日楽しかった。その他は、たいした思い出もない。
#高校
地元の、いわゆる「誰でも入れる」高校に進む。部活なんかにはまったく興味なかったので帰宅部。
中学校の時には英語が得意科目だったが、高校でさっぱりわからなくなった。代わりに得意になったのが物理と数学だった。成績は、「中の上」ぐらいだったと思う。ここでも、たいした思い出はなし。
#最初の就職
私が高校を出て就職したのが、1989年4月だった。この当時は、バブル期の真っ最中で、就職試験を受ければ「誰でも、どこでも入れる」ような感じだった。
私が入ったのは、一部上場の名前は誰でも知ってるであろう有名な電機会社だった。最近、粉飾決算だかなんだかやらかした会社(笑) 川崎市内の外れにある重電工場だった。
ここには「訓練校」があって、私は最初の一年間ここに入った。「製缶科(主に溶接など)」と「電機機器科」があって、私は後者の方だった。
一緒に入った同期全体は、たしか20人ぐらいで、訓練校に入ったのは、製缶科が四人ぐらい、電機機器科が六人ぐらいだったと思う。
ここで私のネクラな性格は、多少明るい方向に変わってきた。
訓練校では「実習」と「座学」があった。実習では電気配線の練習などしたが、ここでいつも指導員に言われた言葉が、「お前は配線はキレイだけど、遅い」だった。
一年間で訓練校は「卒業」して、実際の製造現場に配属となる。私は燃料電池担当の現場に入った。まだこの頃この工場では、燃料電池の開発が始まったばかりだった。ちなみに、「リン酸型燃料電池スタック」と呼ばれるもので、私はその中の「セル」というものの製造を担当した。とても汚れる現場で、当時は仕事がホントに嫌だった。しかし、今考えてみれば、この頃が私にとって一番「いい時期」だったと感じる。なんだかんだで、仕事もプライベートもまぁまぁ充実してたように思う。ちなみに、相変わらず彼女はできなかった(笑)
#強迫性障害の本格的な発症
会社に入って二年ぐらいは、川崎市内大森のはずれの二人部屋の寮だったのだが、その後、横浜市鶴見区のはずれの寮に引越した。
ここで一人部屋になったのだが、とうとう本格的に発症してしまった。
朝出掛けるときの確認、電気・火の元・戸締まりなど。起きてからドアを閉めて出るまで二時間ほどもかかることがあった。結局、遅刻することが多くなって、上司に休職を勧められて実家にしばらく帰ることになった。
実家にいるときに父が亡くなり、結局退職することになった。
鹿児島市内の精神科に何ヶ所か通ったが、あまりよくならなかった。
本屋やコンビニ、天然水の工場などでバイトもしてみたが、家を出るときの確認に時間がかかり過ぎて遅刻することが多く、結局どこも長く続かなかった。
そうこうしてる頃に近所の知り合いに今の作業所を勧められて、今に至る。